世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

▼柄谷行人の「交換様式D」と「霊的な力」

 

▼私は柄谷行人の著書の良き読者ではありません。『日本近代文学の起源』はすばらしい本でしたが、『哲学の起源』には幻滅しました。(『哲学の起源』のやや長い書評は「世界史の扉をあけると」に書きました。)

 

▼『世界史の構造』は読んでいませんが、「交換様式」という語を使うにしても、マルクス的な発展段階論のように考えることには疑問を持ってきました。新著『力と交換様式』も、多分読まないと思います。他に読まなければならない本が山のようにありますし、朝日新聞紙上に載った柄谷執筆の最近の書評がいずれも精彩を欠いたものでしたので(ジャンルは違いますが、金原ひとみなどの書評とは雲泥の差がありました)。

 

▼ただ、朝日新聞に『力と交換様式』の紹介が載りましたので(2022/10/20付)、失礼を省みず、新聞に紹介された内容の範囲内で,、簡単な感想を述べておきたいと思います。

 

▼柄谷によれば、貨幣も資本も国家も「霊的な力」として現存しているということです。そして、貨幣や資本や国家を乗り越える(どのようにアウフヘーベンされるのでしょうか?)「高次元の互酬」(「交換様式D」)もまた、未知の「霊的な力」のようです。そこに「希望」があるらしいのです。「高次元の互酬」としてあらわれる「交換様式D」とは何なのでしょうか? 端的に言えば、「真のコミュニズム」のことだと思います。誤解を避けるために、手垢にまみれた「コミュニズム」という語は使わないのでしょうが。

 

▼貨幣や資本や国家を乗り越える「霊的な力・観念的な力」に「希望」を託す、それが柄谷行人の「到達点」のようです。簡単に言えば、「大切なのは真のコミュニズム(交換様式D)を夢見る力だ」ということになるのでしょう。柄谷は、もしかしたら、このことを手放さないために、さまざまの著書を書いてきたのかも知れません。「柄谷行人の起源」の一つが60年安保ブントだったことを思えば、「真のコミュニズム」を世界史から論証しようとする姿勢は、一応は理解できます。しかし、博引傍証を重ねた末に「霊的な力・観念的な力」に「希望」を託すのでは、ほとんど敗北に近いでしょう。「霊的な力・観念的な力」に「希望」を託すという思想は、珍しいものではありません。宗教をはじめ、古代からさまざまなヴァリエーションで続いてきました。柄谷はそのヴァリエーションを少し増やしただけのように思われます。

 

▼柄谷は「霊的な力」という語をモースやマルクスに帰していますが、それだけなのでしょうか? マルクスの「物神」を評価していますが、単純な下部構造・上部構造論を乗り越えようとして、柄谷はスピリチュアルなものに助けを求めざるを得なかったのでしょうか? 「霊性」という語にすべてを帰着させようとする若松英輔という人もいますが、「霊性」も「霊的な力」も、「語り得ないもの」を語る「魔法の言葉」のように使われていて、非常に危険だと思います。そこでは、ロゴスは沈黙を強いられますので。あるいは、「ヨハネ福音書」冒頭のように、「霊的なロゴス」に場所を譲りますので。

 

▼「霊的な力・観念的な力」は、「希望」につながるだけではありません。人びとの人生を狂わせる、強烈な負の力にもなります。たとえば、「霊的な力・観念的な力」で「交換様式D(高次元の互酬)」を肥大させると、カルトに近づきます。<「高次元の互酬」という「霊的な力」への「希望」>という考え方は、カルトの救済思想にきわめてよく似ているのです。カルトが説くのも、<「高次元の互酬」という「霊的な力」への「希望」=帰依>にほかなりません。多額の献金は、カルトにおいては「高次元の互酬」とされるでしょう。

 

▼思想家・柄谷行人は、「真のコミュニズム」を世界史から論証しようとして「霊的な力」という観念に至り、危うい思想に近接する地点にまで「到達」してしまったのでしょうか?

 

▼なお、柄谷は「ロシアとウクライナの戦争は第1次大戦、第2次大戦の反復です」と述べていましたが、はたしてそうでしょうか? いま行われているのは東スラヴ人国民国家同士の戦いですから、「第1次大戦、第2次大戦の反復」とは言えないでしょう。私たちは、プーチンロシア正教会の「東スラヴ人の大ロシア」という「霊的・観念的力」が瓦解していくさまを見ているのだと思います。