世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

▼ブレイディみかこの写真を見て、石牟礼道子、森崎和江を思う[2022年6月]

 

◆新聞(朝日、2022/6/26)に載っていたブレイディみかこさんの素敵な写真を見て、驚きました。以前の写真の印象とはかなり違っていたからです。写真だけからの感想ですが、多分彼女は、普通の生活者とは異なる経済的ゆとりを手に入れたのでしょう。あれだけ著書を出され、評判になりましたので、当然ではありますが。

 

ブレイディみかこさんの著書は読んだことがなく、短い文章を読んできただけです。でも、「すばらしい人が現れた」と思ってきました。本当のラディカルさが感じられたからです。それだけに、写真を見、インタビューを読んで、ちょっと複雑な気持ちになりました。そして、ふと『徒然草』の一節を思い出しました。

 

◆『徒然草』には、法師について書かれた次のような文章があります。

 

 「勢ひ猛にののしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀聖(ぞうがひじり)の言ひけんように、名聞ぐるしく、仏の御教へにも違ふらんとぞ覚ゆる。」

 

 【権勢盛んで名声轟くのを聞いても、立派だとは思えない。増賀上人の言ったように、法師には名声は煩悩となるから心苦しいばかりで、仏の教えにも背くであろうと思う。】(小川剛生訳)

 

◆700年も前の文章と新聞記事とを比較しても、しかたのないことではあります。中世の法師と現代のライターでは、まったく違うでしょう。でも、何か共通するものを感じてしまいました。どちらの方も、評価が高まったために矛盾にぶつかっています。煩悩からの解脱を目指してきた高僧にとっては、名声が新たな煩悩となってしまいました。貧困や差別などの社会問題を鋭く指摘してきたブレイディみかこさんは、その社会の中で上昇し一定の名声と経済的ゆとりを手に入れました。

 

◆インタビューでのブレイディみかこさんの発言は、写真の印象と符合していたように思います。よくある「識者のコメント」の域を出るものではありませんでした。現状を深くえぐるような鋭さはなかったと思います。

 

ブレイディみかこさんは、これからも、ある程度の「ラディカルさ」を文章の中に入れていくとは思います。しかし、社会的に上昇を遂げた彼女は、貧困や差別に喘ぐたくさんの人たちへの、ラディカルな(根源的な)「エンパシー」を、持ち続けることができるでしょうか? 

 

◆思えば、終生根源的な「エンパシー」を持ち続けた石牟礼道子さんや森崎和江さんは、稀有な方たちだったのです。