世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

【資料】E.H.カーの教え

 

★E.H.カーの『歴史とは何か』を初めて読んだのは、大学1年の時でした。通読するのに苦労した記憶があります。それ以来、時折ページを繰ってきました。原著は1961年出版で、講演を書籍化したものです。翌年に日本語訳が出たというのは、すごいことだと思います。古い本ですが、いつ読んでも発見があります。大切だと思う部分を抜き出してみました。

 

【E.H.カー『歴史とは何か』(清水幾太郎訳、岩波新書、1962)より】

 

◆クローチェが一つの歴史哲学を提議し始めました。すべての歴史は「現代史」である、とクローチェは宣言いたしました。その意味するところは、もともと、歴史というのは現在の眼を通して、現在の問題に照らして過去を見るところに成り立つものであり、歴史家の主たる仕事は記録することではなく、評価することである、歴史家が評価しないとしたら、どうして彼は何が記録に値いするかを知り得るのか、というのです。

 

◆歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。

 

◆過去は、現在の光に照らして初めて私たちに理解出来るものでありますし、過去の光に照らして初めて私たちは現在をよく理解することが出来るものであります。

 

◆どの集団も、その歴史に根ざした自分の価値を持っております。どの集団も、異国の不都合な価値の侵入から身を守り、これをブルジョア的で資本主義的だとか、非民主的で全体主義的だとか、もっと乱暴なのでは、非イギリス的や非アメリカ的だとか、口汚い名前で呼ぶのです。(中略)真面目な歴史家というものは、すべての価値の歴史的被制約性を認める人のことで、自分の価値に超歴史的客観性を要求する人のことではありません。私たちの抱いている信仰にしろ、私たちが立てる判断の規準にしろ、歴史の一部分なのであって、歴史的に研究されねばならぬという点では人間行動の他のすべての側面と全く変わらないのです。

 

◆私の考えでは、優れた歴史家たちは、意識すると否とに拘らず、未来というものを深く感じているものなのです。「なぜ」という問題とは別に、歴史家はまた「どこへ」という問題を提出するものなのであります。