世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★魏晋南北朝期の魅力

 

◆日本では、後漢滅亡後の三国時代が人気ですが、これは明の時代に書かれた歴史小説三国志演義』の面白さによるものです。

 

◆歴史として考えた場合、魏晋南北朝期ほど面白い時代はありません。漢帝国の解体から新たな中華(隋唐)に向かう流動が、約370年も続きました。特に、西晋滅亡(316)後の<五胡十六国東晋南北朝の時代>は、非常に興味深いと思います。この時代、遊牧民族(五胡)の侵入により、中国は、ほぼ華北淮河以南に二分されました。

  <華北>               <淮河以南>

   ①五胡十六国(304~439)       ②東晋(317~420)

   ③北魏華北支配(439~534)     ④宋、斉、梁、陳(420~589)

   ⑤西魏東魏北周北斉(534~581)

 周知のように、③⑤をまとめて北朝と呼び、④を南朝と呼んでいます。倭は南朝朝貢しました。東晋南朝が正統の王朝とされたからです。

 

  ※華北淮河以南に二分された状況は、金と南宋で繰り返されます。

   秦嶺山脈淮河のラインは重要で、畑作地帯と稲作地帯の境界になります。

 

匈奴は前200年頃の冒頓単于の時代が最盛期と言われますが、その500年後に(南)匈奴西晋を滅ぼしたのでした。後述するゲルマン人の移動を引き起こしたフンの主力は(北)匈奴であったと考えられています。王朝や帝国だけが歴史の主役ではありません。

 

華北では遊牧民族漢民族の混淆が起こり、淮河以南の特に江南(長江下流域)でも先住民と華北から移住した人びと(大移動で、その数90万人とも言われます[*])との混淆が起きました。

 

華北遊牧民族として初めて統一した鮮卑北魏が、どのように農耕民を支配したか、なぜ漢化政策を採らねばならなかったかは、後の金や元、清の支配を考えるうえでも、興味深い点です。また、晋の東遷と人びとの大移動により、江南の発展の土台が築かれたこともきわめて重要です。 

 

◆大きな視野で見てみます。このユーラシア東部の民族移動・諸王朝の興亡は、ユーラシア西部のゲルマン人の移動(375~)・ゲルマン人国家の成立・西ローマ帝国の滅亡(476)と、まさに同時代の出来事でした。ユーラシアの東部と西部で大変動が起き、それぞれの地域で新しい時代に入っていったのです。たとえば、考えにくいのですが、北魏の孝文帝とフランク王国のクローヴィスは、同じ時期を生きていました。

 

◆ユーラシアの西部では、しだいに「キリスト教のヨーロッパ」が姿を現していきますが、ユーラシア東部には仏教が急速に広まった時代でした。フランク王国のクローヴィスはカトリックアタナシウス派)に改宗し、北魏の孝文帝は竜門石窟の造営を開始しました。倭でも、渡来系移住民が増加し、仏教と漢字を受容した時代です。

 

◆文化面で<五胡十六国東晋南北朝の時代>を見ると、儒教の一時後退、仏教の興隆、道教の成立という現象が特徴的です。華北遊牧民族王朝が仏教を積極的に取り入れただけでなく、東晋南朝でも仏教は盛んとなりました。その中で、仏教と道教は、対立がありながらもどう共存していったのか、とても興味深いところです。

 

◆「中国の<儒・仏・道>の歴史をよく学んで、中国史全体をもっと理解したい」、そんな思いがありますが、なかなか道は険しいです。最近読んだ、次の言葉にはハッとさせられました。

  『日本人は、中国をつい同じ「東アジアの仲間」と考えてしまう。それ自体まちがいではないのだが、それだけだと中国の四分の一くらいしか見えてこない。』[*]

 

[*]丸橋充拓『江南の発展』(岩波新書、2020)