世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★末木文美士『日本思想史』を考える

 

◆今年1月、末木文美士の『日本思想史』が出版されました(岩波新書)。本ブログは世界史・世界史教育のブログですが、日本で世界史を教える以上、日本を視野に入れない世界史はあり得ないと考えています。その意味では、本書に多くのことを教えられました。

 

◆読み始める前には、「仏教学者による日本思想史だから偏りがあるのではないか」という懸念も持っていましたが、そのようなことはまったくありませんでした。新書という制約の中で古代から現代までの日本思想を叙述するのは大変なことですが、一応成し遂げられていると思います。

 

◆末木は「第一章 日本思想史をどう捉えるか」で日本思想史全体の見取り図を提示しています。「王権(天皇)と神仏」で構造的に古代から現代までを捉える視座は、私にとっては大変新鮮で、かつ説得力に富むものでした。彼は、前近代と近代、現代(戦後)に区分しながら。前近代の思想を「大伝統」、近代の思想を「中伝統」、現代(戦後)の思想を「小伝統」と呼んでいます。ただ前近代では、通常の時代区分とは異なり、平安中期を中世の始まり、戦国時代を近世の始まりと見ていて、考えさせられました。

 

◆3つの伝統は、次のように整理されています。(わかりやすく図解されていますが、本稿では省かせていただきます。)なお、各伝統の内部には、それぞれ豊饒な世界が広がっており、第二章以降で詳述されています(*1)。

 

【大伝統の構造】

 「大伝統は、大きな力を発揮する王権と神仏を両極に置き、両者の相補的な緊張関係の中にさまざまな思想や文化、人々の生活が形成されるという構造を持つ。」

 「大伝統は、王権と神仏という二つの極を持つが、さらにそれぞれがまた重層構造をなすという複雑な構成になっている。」

 

【中伝統の構造】

 「明治以降、第二次世界大戦敗北までの思想構造である。この時期には、複雑な構造が一気に崩壊し、天皇を頂点とする一元的な構造へと転換する。」

 

【小伝統の構造】

 「中伝統が崩壊して、平和・人権・民主などの原理を人類普遍的な理想として掲げ、王権=天皇は象徴として議論の外に置かれ、また神仏の要素はまったく考慮されなくなる。ただ、これはタテマエである。」

 

◆高校の歴史教育・思想史教育の立場で受けとめると、このような見取り図を、新課程の「日本史探究」、「歴史総合」、「倫理」で生かすことができるのではないかと思いました。また、日本を欠いた世界史でなければ、「世界史探究」にも生かすことができるはずです。

 

◆必修の「歴史総合」にも深く関わりますので、「中伝統」について若干考えてみます。明治以降、第二次世界大戦敗北までの時代の思想をどうとらえるかは、私たちにとって、とても大きな課題です。1868年から1945年までの77年間ですが、短くも長い期間です(「小伝統」もほぼ同じ年数になりました)。

 

◆末木は、「中伝統」の精神構造が1890年前後に形を整えた、と考えています。「大日本帝国憲法」(1889)と「教育勅語」(1890)が発布された時期です。また、通説とはやや異なり、仏教が果たした役割を重視しています。

 「[天皇を中心とする一元的な構造は]表側(顕・顕明)では、世界へ向けた近代的立憲国家として現れるが、それを支える下部構造は教育勅語の道徳である。裏側(冥・幽冥)では、神道と仏教がそれぞれ皇室=国家と国民のそれぞれの家の祖先崇拝を担当することになり、この四肢構造によって、大伝統に代わる中伝統の基礎構造が形作られることになった。」

 

◆「天照大神の子孫である、万世一系天皇が主権を持つ」という思想は、やがて「現人神(あらひとがみ)」という考え方にまで行きつきました(*2)。このような天皇制で驀進した末、第二次世界大戦で300万人以上の死者を出して、「中伝統」(「大日本帝国」)は崩壊しました。なぜ、このようなことが起きたのでしょうか? 「小伝統」(戦後思想)は「中伝統」(「大日本帝国」)を思想的に捉え切ってきたでしょうか? このような問いを、「歴史総合」はもちろん、「日本史探究」、「世界史探究」、「倫理」も、避けることができないでしょう。

 

◆「小伝統」(戦後思想)をコンパクトにまとめるのは、難しかったことと思います。叙述にも、もう少し公正さと冷静さが必要だったかも知れません。多分、さまざまな批判があるでしょう。ただ末木は、全共闘世代の思想史家として、筋を通したかったのではないかと思います。象徴天皇制の危うさや「宗教を基盤とした勢力による国家運営」について、鋭い指摘がなされていました。また、鶴見俊輔吉本隆明石牟礼道子などについては、正当な評価がされていたと思います。なお末木は、現在を、「小伝統」(戦後思想)の解体と見て、「思想崩壊状態」と述べていました(*3)。

 

(*1)幕末から明治初期にかけての新漢語の創出については触れてほしかったと思います。この時期の翻訳語は、近現代の日本人の思考の枠組みに大きな影響を与えましたし、中国にも伝わったからです。なお、清朝が倒されたのは1912年です(190ページ)。

(*2)末木は直接は触れていませんでしたが、私は、“明治の政治家たちは、一神教の欧米列強に対抗するためには、日本にも一神教的なものを導入する必要があると考えていた”という見方に、強い関心をもってきました。[三谷太一郎『日本の近代とはなんであったか』(岩波新書、2017)も、この問題を取り上げていました。]もしそうだったとすると、多神教神道、仏教、民俗信仰)を土台としながら、天皇をこの世の「絶対神」として祭り上げるという、アクロバチックな(歪んだ)国家形成であったと思います。

(*3)この指摘には、ハッとさせられました。若松英輔の「霊性主義」(スピリチュアリズム)に危惧の念を持ってきたからです。近接する思想をすべて「若松色の霊性」に呑み込もうとする、執拗な欲望を感じてきました。「思想崩壊状態」だからこそ、やわらかく「たましい」を語りながら、限りなく非合理へと傾斜する「霊性主義」が、一定の広がりを持ってきているのかも知れません。