世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★デカルトの17世紀

 

◆今年は、デカルトの没後370年にあたっています。

 

デカルト(1596~1650)に触れない世界史の教科書、倫理の教科書はありません。でも、取り上げ方はかなり難しいです。デカルトの人生と哲学にはいくつかの謎があり、近代ヨーロッパ哲学(*1)の創始者という位置づけも今は揺らいでいるからです。

 

◆私が無知なだけかも知れませんが、「デカルトの謎」と思えることをいくつかあげてみたいと思います。

 

 

【謎(その1):オランダ】

 

 『方法序説』の第三部末尾に次のような一節があります。

 

  「この国には、長く続いた戦争のおかげで、常備の軍隊は人びとが平和の果実をいっそう安心して享受できるためにだけ役立っている、と思えるような秩序ができている。ここでは、大勢の国民がひじょうに活動的で、他人の仕事に興味をもつより、自分の仕事に気をくばっている。わたしはその群衆のなかで、きわめて繁華な都会にある便利さを何ひとつ欠くことなく、しかもできるかぎり人里離れた荒野にいるのと同じくらい、孤独で隠れた生活を送ることができたのだった。」[*2]

 

 「この国」とはオランダで、「長く続いた戦争」とはスペインからの独立戦争を指しています。フランス人デカルトは、1628年から1649年まで20年余り、オランダに住んだのでした。

 

 オランダは、スペインとの休戦条約(1609)で実質的に独立を勝ち取っていました。神聖ローマ帝国では三十年戦争(1618~48)が続いていましたが、オランダはアムステルダムを中心に全盛期に入っていました。そこに、デカルトは住んだのです。オランダでは信仰と思想の自由がかなり保証されていたと言われます。『方法序説』は、1637年(デカルトは41歳)、オランダのレイデンで、フランス語で出版されました。

 

 1637年当時フランスは、ルイ13世(位1610~43)と宰相リシュリューの時代でした。1643年からは幼少のルイ14世と宰相マザラン(~1661)の時代になります。デカルトスウェーデン女王クリスティナの招きでスウェーデンに赴いた時(1649)、フランスはフロンドの乱(1648~53)の最中でした。

 

 なぜ、デカルトは、ブルボン朝のフランスに住まなかったのでしょうか? デカルトはラ・フレーシュ学院(イエズス会系)に学んだのでしたが、在学中の1610年、暗殺されたアンリ4世の心臓が遺命によりラ・フレーシュ学院の礼拝堂に安置されました。デカルトは、学院で行われたその式典にも参加していました。デカルトも、ブルボン朝の重要性はよくわかっていたはずです。

 

 なお、ステュアート朝イングランドでは、王と議会の対立、ピューリタン勢力の増大から、1642年には内戦となりました。また、1633年にはガリレオ・ガリレイの宗教裁判があり(このためデカルトは『世界論』の出版を取りやめます)、カトリックプロテスタント魔女狩りを行っている時代でした。

 

 デカルトが生きたのは、混沌とした危機の時代でした。決して、「明るく合理的な近代の始まり」などではなかったのです。デカルトがフランスを離れたのは、自分の思想が危険にさらされる可能性を感じていたからなのでしょうか?

 

【謎(その2):我思う、故に我在り】 

 

 『方法序説』第四部の次の一節は、あまりにも有名です。

 

 『このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する[ワレ惟ウ、故ニワレ在リ]というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。』[*2]

 

 現在では「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」という訳が使われるようになりましたが、「我思う、故に我在り」という訳語が先に定着し、「思考する主体」を表したフレーズとしてもてはやされました。西田哲学(絶対矛盾の自己同一)などとは違いますので、新鮮な衝迫力を持っていたのでしょう。また、日本の知識人にとっては、世間に埋没しない「思考する主体」が痛切に必要とされたのでしょう。さらに、実存主義が広まった頃には、「かけがえのない私という存在」に重ねられて受け取られたと思います。

 

 しかし、たとえば養老孟司は、このフレーズを冷静に受けとめていました。

 

 『ここで「自分が」という言葉が出てくるのは、西洋語の約束事であり、それ以上ではないような気がする。(中略)デカルトのように余分を嫌った人が、ここでわざわざ「我」を導入したと、私には思えない。デカルト自身がここで「我」を重視したとすれば、それは西洋人の癖であろう。』[*3]

 

 すごい見方だと思います。養老は、「我」よりも「思考(コギト)」に重点をおいて考えていました。

 

 「我」を重視した通常の見方では、次のようになるでしょう。

 

 『懐疑はパトス的ではなく、理性的である。情念ではなく、意志(究極は自由意志)に由来する、注意力であり、判断である。(中略)[方法的懐疑は]真なるものや真理への、方向をもった、能動的探究である。「私」「神」「世界」、この三つの根本的存在を疑いえないものとすることを、方法的懐疑はめざすであろう。』[*4]

 

 デカルトは、「考える私」を、感覚や感情などさまざなものを捨象して、言わば抽出したのだと思います。抽出したのでなければ、のちに『情念論』を書く必要はなかったでしょう。そして抽出された「考える私」と「神の存在」の関わりこそ、デカルト哲学の最重要テーマでした。現代フランスの学者ロランス・ドヴィレールも、次のように述べています。

 

 「自己認識は、私は在る、私は存在するという一文に要約されるわけではない。それはより本質的には、無限なものへの渇望を意味している。(中略)もし私が考える事物なら、私はより本質的なしかたで、神に関する思考そのものですらある。」[*5]

 

 現在、デカルトへの関心は、その形而上学が中心になっているようです。

 

 いずれにしても、「我思う、故に我在り」は、独り歩きしてしまったと言えるでしょう。

 

 20世紀以降、西洋思想の中でも「思考する主体」は揺らいできました。「思考する主体」があったとしても、それは実体ではなく、世界や他者との関係で常に揺らぎ変化するものとしてある、というのが現在の私たちの実感(そして思想的現実)だと思います。

 

 実は、デカルト自身、「神の存在」や「精神と身体」について緊迫した議論を展開した後、次のように書いていたのでした。

 

 「しかしながら、実生活の必要は猶予をゆるさず、いつでもこれほど厳密な吟味を行なうわけにはゆかぬがゆえに、われわれは、人間の生活が個々の事物についてはしばしば誤りをおかしやすいことを告白しなければならず、結局われわれの本性の弱さを承認しなければならないのである。」[*6]

 

【謎(その3):哲学史の中の位置】 

 

 デカルト形而上学への強い関心は、西洋中世哲学の評価の高まりとあいまって、デカルト哲学史上の位置づけにも変化をもたらしているようです。

 

 早くから、「中世と近世の断絶」ではなく、「中世と近世の連続性」に注意を促してきた山内志朗[*7]は、先月出版された意欲的な『世界哲学史5』でも、次のように述べています。

 

 「デカルトは、革新的な出発点を措定し、中世スコラ哲学への訣別を宣言できる大哲学者であった。しかし重要なのは、デカルトもまた、スコラ哲学遺産の大部分が優れた概念装置を大量に保有し、その概念群を継承していたことだ。ライプニッツはスコラ哲学の意義を継承したのである。スピノザの『エチカ』にしろ、そのスコラ哲学への用語面における全面的依存性(内実における徹底的な反逆ではあるが)を見ても、スコラ哲学の効力は、カントに至るまで歴然としている。」[*8]

 

 スコラ哲学は「中世の古い哲学」という固定観念からは、そろそろ脱却しなければなりません。そして、驚いたのですが、『世界哲学史5』の第6章で大西克智は、アンセルムス、モリナとスアレス(どちらも16世紀イエズス会の後期スコラ哲学者)の後に、デカルトを位置づけていました[*9]。ロランス・ドヴィレールが「神学的なコギト」という表現をしているのと[*5]、共振するものがあるのでしょう。大西は、アウグスティヌスからデカルトに至る「自由意志」論の系譜にも着目しています。

 

【謎(その4):哲学と実生活】

 

 デカルトは、オランダで「孤独で隠れた生活を送ることができた」と述べていましたが、膨大な書簡の存在はこの言葉を裏切っています。私は書簡をほとんど読んだことはありませんが、手紙のやりとりによってソクラテス的な対話が実践されていたことは間違いありません。書簡でのホッブズとの論争もありました。

 

  『方法序説』の自伝的な部分は、額面通りには受け取れないような気がしています。とても興味深い物語として書かれていますが、最近は「半透明の仮面」のようなものを感じています。1637年の出版の時、著者名は伏せられていたとのことです。

 

 なお、デカルトがオランダでヘレナという女性と一緒に暮らし、フランシーヌという娘もいたことが知られています。フランシーヌは5歳で亡くなったそうです。ヘレナのその後の消息はわかりません。[*10]

 

 デカルトは、哲学的な営為と社会生活・実生活を慎重に分けて考えていたと思われます。当時、政治や宗教は、きわめて敏感な問題でした。最初にも述べましたが、ブルボン朝への距離感はどの程度のものだったのでしょうか? 「ナントの王令」を、デカルトはどのように評価していたのでしょうか? ラ・フレーシュ学院に学んだのですから、カトリックだったと思われますが、カルヴァン派の多いオランダで、どのような教会に通っていたのでしょうか? それとも、教会には通っていなかったのでしょうか?

 

 デカルトは、大学の教授だったわけではありません。若い時には三十年戦争にも顔を出し、故国フランスを離れ、オランダでは何度も引っ越しています。最後はスウェーデンで亡くなりました。定住とは無縁だったデカルトデカルトを突き動かしていたものは何だったのでしょうか?

 

 ずいぶん前ですが、フランス文学者の原田佳彦は次のように書いていました。

 

  「当時の治安、衛生状態の中でヨーロッパ中を駆けめぐったデカルトの姿は、今日のわれわれが抱いている哲学者のイメージとはかけ離れたものである。(中略)そこには強靭な意志と知的野心、そして外部ないし他者に対して開かれた高邁と友愛が見出されるはずである。」[*11]

 

 ただ原田は、アンリ・ルフェーブルデカルトの中に<不安>を見ていたことを、つけ加えていたのでした。

 

 

[*1]あえて古い時代区分を使いました。現在は、17世紀を近世と呼ぶことが一般的になっています。本ブログでは、15世紀後半から18世紀半ばまでを近世としています。

[*2]デカルト方法序説』(谷川多佳子訳、岩波文庫、1997)

[*3]養老孟司「脳の機能のきわめて明晰な表現」(デカルト『方法叙説・省察』の解説、白水社、1991)

[*4]谷川多佳子『デカルト研究』(岩波書店、1995)

[*5]ロランス・ドヴィレール『デカルト』(津崎良典訳、白水社クセジュ文庫、2018、原著は2013年の出版)

[*6]『省察』の最後の部分[井上庄七・森啓訳、『世界の名著22 デカルト』(中央公論社、1967)所収]

[*7]たとえば、山内志朗「黄昏としての十七世紀」[「現代思想」1990年5月号(デカルト特集、青土社)所収]

[*8]山内志朗「西洋中世から近世へ」[『世界哲学史5』(ちくま新書、2020)所収]

[*9]大西克智「西洋における神学と哲学」[『世界哲学史5』(ちくま新書、2020)所収]

[*10]竹田篤志デカルトの青春』(勁草書房、1965)、野田又夫デカルトの生涯と思想」[『世界の名著22 デカルト』(中央公論社、1967)所収]

[*11]原田佳彦「いま、なぜデカルトか」[「現代思想」1990年5月号(デカルト特集、青土社)所収