世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★中国の<1989.6.4>が歴史の中で生かされる時

 

◆今日は、1989年の(第二次)天安門事件から31年目にあたります。中国では、<天安門事件>という語はおろか、<1989>や<6.4>という数字さえネット上から削除されるという恐ろしい体制が続いています。

 

◆すでに1986年頃から、胡耀邦党総書記やそのブレーンの間では政治改革の機運が高まっていました。三権分立論をはじめ、「制約を受けない権力は腐敗を生む」というトクヴィルの主張まで紹介されていたそうです(*1)。しかし、李鵬ら保守派の巻き返しがあり、鄧小平も保守派と同一歩調をとりました。胡耀邦は1987年に失脚します。一方1988年末には、知識人・学生による、政治改革を求める運動が広がっていました。彼らは「三権分立を中国で実施することは可能」、「民主化とは多元的なコントロールのこと」と主張していました(*1)。その主張は、公務員や企業経営者、商店主にも広まっていきます。

 

◆1989年4月の胡耀邦死去が、学生・市民の運動に火をつけたことは、よく知られています。ただ、それだけではありません。1989年は、中国近代化の始まりを告げた五・四運動70周年にあたっていました。また、ペレストロイカを進めていたゴルバチョフの訪中があり、フランス革命200周年という年でもありました。政治改革と経済の安定を求めていた学生・市民は(当時は物価が高騰し庶民の生活が苦しくなっていました)、このような雰囲気の中で1989年を過ごしていたのです。そうでなければ、「民主の女神像」が天安門広場に登場することはなかったでしょう。

 

戒厳令を敷いた共産党は、1989年6月3日から軍隊を投入し、4日未明には軍が天安門広場を制圧しました。死者は少なくとも2000人に及んだと言われています。政治改革の夢は潰えました。胡耀邦の後継者で、学生・市民に理解を示していた趙紫陽総書記は、5月下旬、すでに失脚していました。

 

中国共産党人民解放軍という強固な組織に、改革派は対抗できなかったのでしょう。中国の学者の中には、『運動を先導した知識人集団は「(天安門広場への広範な)動員の本当の深さ」を理解できず、実行すべき社会的目標も提示できなかった』という厳しい見方をする人もいます(*2)政治改革が挫折したという歴史的事実は、重いものです。

 

天安門事件以後、中国は「愛国主義教育」を猛然と推進しました。「国民の愛国的情熱を中国の特色のある社会主義建設事業と祖国の統一・繁栄・富強への貢献に凝集させる」ことが強く求められました(*2)。そして、飛躍的な経済成長を遂げていきます。専制的な統治と市場経済を結合させ、アメリカと覇権を争うところまできました。そのイデオロギーは、本質的には、もはや社会主義ではなく「偉大な中華民族」です。

 

◆1989年に天安門広場に集った人びとの志は、今、香港の民主化運動や台湾社会で受け継がれているように思われます。中国の歴史の中でその志が生かされる時も、やがてやって来るのではないでしょうか。清朝と変わらないような、現在の専制政治は、AIと連動しながら続いていくのでしょうか? 2049年中華人民共和国建国100年)までは何とか続くでしょうか? まもなく、中国は高齢化社会の到来という難題に直面します。また、お金の亡者となった中国に、世界の人びとは文化的な魅力はまったく感じないでしょう。現在の専制政治が100年後も続いているとは考えにくいのです。

 

(*1)天児慧『巨龍の胎動』(中国の歴史11、講談社、2004)

(*2)砂山幸雄『見失われた「1989年」』(「思想」2019年10月号所収、岩波書店)