世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

◆ノルマン・コンクェスト[授業で多角的に考えるために①]

 

◆まず、生徒たちと教科書の記述を読んでみます。代表的な教科書の記述は、次の通りです。

 ・「1066年ノルマンディー公ウィリアムが王位を主張して攻め込み(ノルマン=コンクェスト)、ウィリアム1世として即位しノルマン朝をたてた。」(山川『詳説世界史B』)

 ・「ノルマンディー公ウィリアムが1066年にイングランドを征服して、ウィリアム1世としてノルマン朝を開いた。」(東書『世界史B』)

 

◆どちらの教科書を使用していても、次のような問いを生徒たちに投げかけ、考えてもらいます。

 「厳密に考えると、この文章でおかしなところがあります。どこだと思いますか?」

 

◆教科書の文章を疑うなどということは普通はないと思います。しかし、「探究的な授業」では、教科書記述の不十分さにも気づかせる必要があるでしょう。

 

◆おかしいのは、「ノルマンディー公ウィリアム」の部分です。ノルマンディー公国英語圏ではありません。ノルマンディーではフランス語が使われていたのですから、公の名はフランス語名でなければなりません。正しくは「ノルマンディー公ギヨーム(あるいはギョーム)」となります。(山川の『新世界史B』は、この点はすぐれていて、ギヨームという表記です。)

 

◆フランスの公の名を英語名で表記することは、通常ではあり得ません。「イングランド中心史観」が教科書記述に表れてしまった、典型的な例かと思われます。

 

◆ノルマンディー公ギヨームは、海峡を越えてイングランドをも支配しました。イングランド王国ではウィリアム1世として、ノルマンディー公国ではギヨーム公として、領地を支配していたわけです。

 

◆生徒たちには、ノルマンディー公国の成立のところで、「ノルマン人たちはフランスに同化し、フランス語を話すようになっていった」ことを伝えておきますので、「ウィリアム」に疑問を持つ生徒もいます。ノルマン・コンクェストは、ロロたちのノルマンディー上陸から、すでに1世紀半が過ぎた時期の出来事でした。

 

近藤和彦『イギリス史10講』では、次のような記述です。

 ・「ノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム)は、生前のエドワードから王位継承を約束され、」

 ・「ギヨーム公は、1066年のクリスマスにウェストミンスタの修道院教会でイングランド国王ウィリアムとして戴冠した。」

 

◆「ノルマンディー公ギヨーム」と確認することで、

 ①フランスのノルマンディー公がイングランドをも支配したこと

 ②大陸の封建制イングランドに導入したこと

 ③支配者のフランス語が英語の中に入っていったこと

などが、よく理解できるようになります。

 

◆また、次のプランタジネット朝もフランス系の王朝で、アンジュー帝国とも呼ばれたことがわかりやすくなります。ジョン王がフランスの領土の大半を失ったことも、きちんと理解できるようになるでしょう。

 

◆なお、山川『詳説世界史B』の記述には、別の問題点もあります。「攻め込み」だけではコンクェストとは言えません。 conquest は「征服」の意です。

 

【参考文献】

近藤和彦『イギリス史10講』(岩波新書、2013)

なお、1998年に出版された川北稔編『イギリス史』(世界各国史11、山川出版社)で、すでに「ノルマンディー公ギヨーム」と記されています。2000年出版の川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史』(有斐閣)では、「ノルマンディー公ギョーム」です。

なぜ高校教科書は「ノルマンディー公ウィリアム」を墨守してきたのでしょうか? 新科目「世界史探究」の教科書では、当然「ノルマンディー公ギヨーム」あるいは「ノルマンディー公ギョーム」となっていると思いますが……。

 

【関連ページ】

「世界史の扉をあけると」2013年7月2日の記事:世界史ミニ授業【ノルマン・コンクェストと「イギリス」②】