世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★興味尽きない、500年前の世界

 

◆今年(2020年)は、ヴェルサイユ体制下で国際連盟が設立されてから100年、第二次世界大戦終結・「大日本帝国」崩壊から75年、ドイツ統一から30年というような年にあたっています。

 

◆1992年前後、「コロンブスから500年」というテーマで、さまざまなことが述べられていたことを思い出します。冷戦終結からドイツ統一ソ連解体という時代の節目に、500年前という歴史の大きな節目を考える、そういう雰囲気だったと思います。しかし、冷戦終結という節目は、現在ではかなり霞んでしまいました。「必ずしも民主主義と自由の勝利ではなかった」という認識が、一般的になりつつあります。

 

◆500年前という区切りも、あまり意味がないでしょうか? そんなことはないと思います。500年前は、グローバル化が始まっていた時期でもあります。限られた知識で「1520年の世界」を振り返ってみました。スケッチ程度のものですが、さまざまなつながり(地域と地域、500年前と現代など)も見えてきて、興味は尽きません。

 

 

【 1520年の世界 】

 

★30年近く前(1492年)、レコンキスタを完了し、コロンブスを支援したスペイン王国は、「全盛期」へと助走を始めていました。ハプスブルク家のカルロス1世の時代です。彼は前年神聖ローマ皇帝にも選出されていました(カール5世)。やがてイエズス会をつくることになるロヨラは、この頃は軍人でした。

 

アメリカ大陸では、ヨーロッパ人の侵略(歴史上最も激しい異文化接触)が始まっていました。スペイン人コルテスは、前年にアステカ王国のテノチティトランを占領したものの、インディオの反乱のため敗走。態勢を立て直して、次の機会をうかがっていました。翌年、アステカ王国を滅ぼします。

 

★スペイン人ピサロインカ帝国を滅ぼすのはまだ先ですが、「インカの黄金」の噂を聞き、パナマ(前年スペイン人が建設しました)に至っていました。なお、ボリビアポトシ銀山もまだ発見されていません。

 

ポルトガル人マゼランは、スペイン王の支援を受け、アメリカ大陸南端の海峡(現在のマゼラン海峡)を通り、太平洋に出ました。しかし翌年、フィリピンで殺されてしまいます。

 

★東南アジア・インドから始まった「サトウキビの旅」が、歴史を変えていくことになります。サトウキビの苗をカリブ海地域に最初に持っていったのはコロンブスだった、というのは驚きです。1493年の2回目の航海の時でした。ただ、1520年頃のサトウキビ栽培・砂糖生産の中心地は、まだ、ポルトガル王国が支配していた、西アフリカのマデイラ諸島でした。すでに奴隷が使われていました。そしてまもなく、カリブ海地域そしてブラジルでサトウキビ・プランテーションが発達することになります。(*1)

 

(*1)佐藤次高『砂糖のイスラーム生活史』(岩波書店、2008)。サトウキビの本格的栽培と砂糖生産はもともとイスラーム世界で始まり、イベリア半島に伝わりました。シュガー sugar の語源は,、アラビア語のスッカル sukkar です。

 

★一方、アメリカ大陸原産の作物も、世界中に旅立ちます。コロンブスは、すでに第1回の航海の時、トウモロコシをスペインに持ち帰っています。16世紀中に世界各地に伝わりました。タバコも、17世紀初めには中国・日本にまで伝わりました。ジャガイモのヨーロッパへの伝播は少し遅れて、16世紀後半とのことです。

 

★「九十五か条の論題」の発表から3年、神聖ローマ帝国のルターは、自らの思想の高まりの中にいました。マニフェストというべき『キリスト者の自由』が著されます。メディチ家出身の教皇レオ10世からの破門警告状を焼き捨てたのも、この年でした。翌年からは、皇帝カール5世との本格的な対峙が始まります。そしてまもなく、農民戦争という嵐がやってきます。

 なおこの頃から、改革関連の出版物が増大しています。ルター派は、活版印刷木版印刷を駆使した情報戦で、カトリック教会を圧倒しました。

 

イングランド王国(*2)はヘンリ8世の時代でしたが、まだローマ教皇やスペインとは良好な関係にありました。国教会の成立は、10年余り後のことです(のちに一時カトリックを復活させることになるメアリ1世は生まれていました)。フランドル向けの羊毛生産が盛んで、毛織物業も成長を始めていました。

 

(*2)日本では、イングランド王国連合王国も、「イギリス」と呼ぶ習慣がありますが、それでは「ブリテン諸島」の歴史が見えなくなるでしょう。ウェールズはヘンリ8世によってイングランド王国に正式に併合されますが、北にはスコットランド王国がありました。イングランド王国アイルランドで実質的に支配していたのは、ダブリン周辺だけでした。本ブログでは(私の授業でも)、イングランド王国は「イギリス」と呼んでいません。1707年のグレートブリテン王国成立以降、「イギリス」という国名を使っています。

 

フランス王国はフランソワ1世の時代に入っていました。彼はルネサンス人文主義的雰囲気の中で成長し、即位後まもなくレオナルド・ダ・ヴィンチを招きました(レオナルドは1519年にフランスで亡くなりました)。対教皇では、王権を強めたガリカニスム(国家教会体制)を確立させたばかりでした。また、18世紀半ばまで続くハプスブルク家との対抗が始まっており、翌年からイタリア戦争に勢力を割くことになります。

 なおカルヴァンは、北フランスで少年時代を過ごしていましたが、すでにフランスにも福音主義的思想は登場していました。

 

ネーデルラントハプスブルク家領でした)のエラスムスイングランドのトマス・モア(『ユートピア』を著し、ヘンリ8世に仕えていました)との交友が続いていました。10年余り前に『愚神礼賛』でカトリック教会の腐敗を風刺したエラスムスでしたが、ルターとの関係は悪化し始めていました(*3)。まもなくルターがドイツ語に訳すギリシア新約聖書は、エラスムスが校訂したものだったのですが。

 

(*3)『世界の名著17 エラスムス、トマス・モア』巻末の年譜(中央公論社、1969)。カトリック教会と新しい流れ(のちにプロテスタントと総称される)の分岐が明確になっていました。まもなく、全ヨーロッパ的な宗教戦争の様相を呈していきます。カトリックにとどまった二人の人文主義者(トマス・モアとエラスムス)には、過酷な運命が待っていました。

 

イタリア戦争の混乱の中で、マキァヴェリはフィレンツェ市政のために奔走していました。200年前のダンテもそうでしたが、彼は書斎の人ではありませんでした。激動の渦中で、政治を、イタリアを考えていました。すでに『君主論』や『ローマ史論』を執筆していましたが、数年後失意のうちに亡くなります。

 

イタリアの画家ラファエロが亡くなりました。今年は没後500年にあたっています。遺言により、遺体はローマのサンタ・マリア・デッラ・ロトンダ教会に安置されました。この教会はかつて、ローマのパンテオン(万神殿)だったところです。あえて、そういう場所を指定したのです。「古代再生を体現する聖母教会」として、まさにラファエロにふさわしい場所でした(*4)。

 なお、ミケランジェロは数年前にシスティーナ礼拝堂の天井画を完成させていました。彼の活動はまだ続きます。

 

(*4)加藤磨珠枝「墓所に込められた古代への思い」(「美術手帖」2013年5月号)。「古代再生を体現する聖母教会」とは一見不思議な表現ですが、ルネサンスの本質をついていると思います。新プラトン主義の影響もあって、ヴィーナスなどの異教の神々が再生し(たとえばボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」)、キリスト教と共存していました。

 

ポーランド王国(正確にはリトアニアポーランド連合王国)では、コペルニクスが、教会の仕事に従事しながら、地動説の構想を練っていました。彼は、10数年前にイタリアに留学しており、この時天動説に疑問を持ったと言われています。静かに「危険な書物」(『天球回転論』)を準備していたのでした。

 

モスクワ大公国は、最終的にモンゴル人の支配から脱して40年が経っていました。イヴァン3世とイヴァン4世の間の時期です。10年余り後には、イヴァン4世が正式にツァーリの称号を使用して農奴支配を強化し、のちのロシア帝国につながっていきます。

 

オスマン帝国スンナ派)では、この年、スレイマン1世が即位しました。3年前にエジプトのマムルーク朝を滅ぼし、アナトリアバルカン半島からエジプトまでの大国となっていました。(*5)

 マムルーク朝に代わり、メッカ・メディナの保護権を手に入れたオスマン帝国は、イスラーム世界の中心となったのです。そしてまもなく、地中海の制海権を手に入れ、バルカン半島北部からハンガリー~ウィーンへと北上します。(*6)

 

(*5)トルコ人が多数のアラブ人やギリシア人、ユダヤ人、南スラヴ人を支配していたわけですが、当時のオスマン帝国では「民族」の意識は強くありませんでした。また、異なる宗教を信仰していても、それが根本的な差異とは考えられませんでした。ヨーロッパの影響を受けて変わっていくのは、19世紀からです。

 

(*6) 佐藤次高の前掲書によれば、「コーヒーの旅」も始まっていました。この時期には、カイロに史上初めてコーヒー店ができていました。そして16世紀半ばには、イスタンブールにも開店します。coffee の語源もアラビア語です。

 

イランでは、サファヴィー朝が成立して20年目でした。国家形成の主軸として、シーア派十二イマーム派)を採用しました。シーア派としてのイランは、この時から始まります。シーア派への信仰は、当時のスンナ派にもあったイマーム信仰が功を奏して、サファヴィー朝内に広まっていきました(*7)。500年前は、西アジアシーア派が広まる画期だったと言えます。ただ、この時点ではサファヴィー朝領内にあったバグダードは、まもなくスレイマン1世のオスマン帝国に奪われます。バグダードは、シーア派勢力圏とスンナ派勢力圏の境界に位置していたのでした。

 

(*7)永田雄三・羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15、中央公論社、1998)。現在のイラクの人々の65%がシーア派であることを考えると、この時期の歴史は重要です。イラクにはシーア派の聖地もあります。

 なお、現在、世界のムスリム全体ではシーア派は少数派、と解説されることが一般的です。しかし、中東ではスンナ派と勢力が拮抗していることを認識しておかねばなりません(*8)。

(*8)池内恵シーア派の中東での分布」[ ikeuchisatoshi.com ]

 

西アフリカニジェール川中流域には、ソンガイ王国が栄えていました。イスラームを基盤としていて、トンブクトゥが中心都市として発達しました。

 東アフリカイスラーム圏でした。アラビア語の影響を受けたスワヒリ語が形成されて、インド洋貿易の拠点であり続けていました。約100年前には、明の鄭和の一行が訪れました。また、20年余り前には、マリンディで、ヴァスコ・ダ・ガマがインドへの水先案内人を雇っていました。

 

南アジアでも、変動が起こりかけていました。ティムールの直系の子孫であるバーブルは、アフガニスタン北部から、パンジャーブ地方に侵攻する機会をうかがっていました。6年後には、パーニーパットでロディ-朝軍を破り、ムガル帝国スンナ派)を建てます。なお、20年余り前(1498年)にインドに到達したポルトガルは、すでにインド南西部のゴアを占領していました。

 

カビールの影響を受けて、ヒンドゥー教イスラームを統合しようとしたナーナクが、パンジャーブ地方などで布教していました。シク教の成立です。ナーナクの説教は「ヒンドゥーもいなければ、ムスリムもいない」という言葉で始められたということです(*9)。数十年後になりますが、ムガル帝国第3代皇帝アクバルは、このような思想をよく理解していたと思われます。

 

(*9)佐藤正哲ほか『ムガル帝国から英領インドへ』(世界の歴史14、中央公論社、1998)。シク教はのちに党派性を強めましたが、ナーナクの「ヒンドゥーもいなければ、ムスリムもいない」という呼びかけは、現代にも響くように思います。今から500年後には、「ヒンドゥームスリムもいない、クリスチャンもブディストもいない」というような考え方が受け入れられる世界になっているでしょうか?

 

東南アジア大陸部では、上座部仏教を国教としたアユタヤ朝が領土を広げていました。ベトナムには黎朝がありましたが、諸勢力が割拠していました。

 諸島部は、歴史的な転換期にありました。マラッカ王国ポルトガルに滅ぼされた直後で、多くのムスリム商人がスマトラ島北部のアチェ王国に移っていました。アチェ王国は、香辛料貿易で繁栄しながら、東南アジアのイスラーム・センターとして重要な役割を果たすことになります。ジャワ島にもイスラームが広まっている時期で、まもなく西部にはイスラームバンテン王国ができます。

 そして1520年は、ジャワ島中部を中心に一時は大きな勢力となったマジャパヒト王国が滅びた年でした。マジャパヒト王国は東南アジア最後のヒンドゥー王国となりました。諸島部にはイスラーム化の大きな波が押し寄せていたのです。

 

中国は、明の中期でした。商業・手工業とも活発で、穀倉地帯は長江下流域から中流域へ移りつつありました。日本銀が流入する少し前の時期です。また、王守仁(陽明)が、長い左遷の時期(この時期に思索が深まったと言われます)の後、中央政界に復帰していました。

 一方、多くの中国人を含む「後期倭寇」の活動が活発になり始めていました。また、ポルトガル人が、マラッカから北上し、広州に姿を現していました。スペイン人によりメキシコ銀が流入するのは、半世紀後のことです。

 

琉球王国が、明・朝鮮・東南アジアとの交易で栄えていました。ジャワ島まで交易範囲に入っていて、琉球の人々は「万国の津梁(架け橋)」という誇りを持っていました。ただ、ポルトガルが登場したため、東南アジアとの交易は陰りを見せていきます。

 

日本室町時代の後半で、応仁の乱から半世紀過ぎた頃です。加賀では、一向宗門徒を中心に自治支配が行われていました。世界史の激動の波が、まもなく列島にも届こうとしていました(*10)。まだ、織田信長は生まれていません。14歳のザビエルはまだピレネー山中にいて、日本のことを知る由もありませんでした。

 

(*10)ポルトガル人が種子島に漂着したのは、20年余り後(1543年)でした。その6年後に、ザビエルがマラッカから鹿児島にやって来ます。

 

 

◆以上、500年前の世界を概観してきましたが、グローバルに歴史を見るということは、やはり難しいものです。500年前の世界を十分に検討するためには、今回の記事の30倍ぐらいの分量が必要でしょう。とても、私の能力の及ぶところではありません。

 ただ、書きながら、歴史とは過去と現在の対話であるということを、あらためて強く感じました。

 ゴーギャンの絵(1898年)のタイトルを思い出しています。

 「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」