世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

★明らかにされる「古代末期」:『ヨーロッパとゲルマン部族国家』

◆マガリ・クメール、ブリューノ・デュメジル著『ヨーロッパとゲルマン部族国家』が出版されました[2019年5月、文庫クセジュ]。原著第二版(2016年)の翻訳ということですが、きわめて早い紹介で、とてもありがたいです。

 

◆今まで、いわゆる「ゲルマン人の大移動」や「西ローマ帝国滅亡」について、釈然としないものを感じてきましたが、この本で疑問はほとんど解消したように思います。

 

西ローマ帝国の滅亡(476年)で、ヨーロッパ史における古代と中世を区分するのではなく、3世紀頃~7世紀頃を「古代末期」ととらえるべきだという考え方が提唱されてきました。この区分にしたがえば、本書は<古代末期=ローマ世界の変容~ヨーロッパ世界の形成>に明快な展望を与える好著と言えるでしょう。

 

■章を追いながら、本文の一部を紹介していきたいと思います。「蛮族」は、ゲルマン人あるいはゲルマン民族と読み替えてください。

 

 第一章 帝国侵入以前の蛮族

 「大移動を説明するモデルは、大衆向けの著作において長い間何度も取りあげられてきた。2013年、ウィキペディアは再びそれを人びとに伝えひろめた。もっとも特徴的な描写は、民族大移動の地図である。その地図では、蛮族の動きがヨーロッパの最果てからローマ帝国へと向かう矢印によって示されていた。このような表現は、多くの理由から否定されるべきである。」(21ページ)

 

 第二章 ローマとその周辺

 「4世紀にローマは同盟軍(蛮族軍)により高い地位を与えるという選択をした。その一環として、蛮族は帝国と取り決めを締結した。これによって、蛮族は土地や食料物資を受領できるようになり、内部組織を自由に管理できるようになった。他方、蛮族は軍事的なリーメス[境域]維持という重責を負うことになった。」(52ページ)

 

 第三章 定住の形態

 「帝国の災難は、ローマ社会とその序列体系の崩壊を意味したわけではなかった。(中略)たとえばアキタニアにおいて、418年のゴート族の入植は、貴族階級の生活様式を乱さなかった。(中略)[北西ヨーロッパ以外の場所では、ローマの地方]有力者が新しい支配的エリート[蛮族支配階層]と同盟を結ぶ知恵を得て、社会的優位を維持していた。」(74~75ページ)

 

 第四章 五世紀における蛮族文化

 「蛮族文化は、ローマ帝国との接触が増したことで、物的にもイデオロギー的にも大きく変化した。それと並行して、3世紀以来、ローマ人の生活様式も大きく変化した。二つの世界がますます歩み寄っていったのである。たしかに文学的著作の大半は依然として、文明と野蛮の間の正面衝突というモデルを提示しているが、生活実態に関わる資料は、これらが混交した社会が出現したことを証言している。」(81ページ)

 

 第五章 蛮族王国の建国

 『新しい王国を「蛮族」王国と呼ぶのは歴史家だけである。同時代人は新しい王国の大部分を、行政的にも法的にもローマの直接的な後継者と認識していた。』(105ページ)

 

 第六章 蛮族王国の改宗

  「蛮族たちは、カトリック司教団との関係をきわめて早期から維持した。これはなによりもまず、司教団がその公的機能によってローマの秩序崩壊後も存続した唯一の組織だったからである。(中略)5世紀後半から、伝統的市民生活の破綻は、地方教会が権力を増しながらこれを補った。(中略)司教の大半はかつてのローマ貴族階級出身だった。」(131~133ページ)

 

◆以上、簡単な紹介をしてみました。詳しくは本書を読んでいただきたいと思いますが、長期の変動の中で新しい社会が形成されていく様子がたいへんよくわかります。

 

◆本書のような見方が、新しい科目「世界史探究」の教科書記述にも反映されることになるでしょうか? 期待しているのですが。

 

【マガリ・クメール、ブリューノ・デュメジル著『ヨーロッパとゲルマン部族国家』(大月康弘小澤雄太郎訳、白水社文庫クセジュ、2019年5月)】

 

※なお、ベルトラン・ランソン著『古代末期-ローマ世界の変容』(白水社文庫クセジュ、2013年)も併せて読むと有益です。