世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

◆元号・改元<日本文化の複合性から考える>(2019年)

<はじめに>

★2019年4月1日、政府から新元号「令和」の発表があり、さまざまの感想が飛び交っています(施行は5月1日)。

★最初は、元号に関して基本的な事項をまとめておこうと思ったのですが、自分の考えも述べることにしました。なかなかシビアなテーマですから、研究者でも、自分の意見を述べない方もおられると思います。ただ、歴史を学んできた者として、避けるわけにはいかないと考えました。

★1~6は、元号に関するまとめになっています。1~3は基本事項のまとめ、4~6は私なりの視点でのまとめです。考えを述べてあるのは、<日本文化の複合性、「国書」、元号の未来>以降の部分です。

 

1 そもそも元号とは

紀年法の一つ。紀年とは、年数を数える際の始まりを定めること。一般的なのは、西暦(キリスト)紀元。イスラームでは、ヒジュラ(622年)を紀元としている。

元号は、中国で始まった。前漢武帝の建元元年(前140年)が最初である。重要なことであるが、そこには「皇帝は、空間とともに時間をも支配する」という観念があった。

◆中国では、辛亥革命(1911~12年)で皇帝政治にピリオドが打たれ、元号も廃止された。

◆朝鮮・ベトナムでも過去に使用されたが、現在も使用しているのは日本のみ。

<『新版 角川 日本史辞典』などによる>

 

2 日本での元号使用

◆中国にならって、使用するようになった。645年の「大化」が最初。その後一時途絶えたこともあったが、701年の「大宝」から定着した。

元号には呪術的な意味が込められ、明治以前、改元は災厄を払い、世を一新するとされた。

◆そのため、天皇在位中、複数回改元されることがあった。一世一元となったのは、明治以降である。

◆中世後期には、朝廷が定めた元号以外のものを、地方権力や寺社が使用することがあった(私年号)。

<『新版 角川 日本史辞典』などによる>

 

3 新元号に関連して①[典拠]

◆「令和」は『万葉集』を典拠としているため、「国書から」と強調されている。ただ、典拠となった部分は、和歌ではなく漢文であり、中国の『文選(もんぜん)』にほとんど同じ表現があるという。

◆『万葉集』は日本最古の和歌集で、奈良時代半ば~後半(8世紀半ば~後半)に編纂された。『文選』は、6世紀前半、南朝・梁の昭明太子が編集した詩文集であり、古代日本でも文人の必読書とされた。

<『山川・世界史用語集』、4月2日付の「毎日新聞」・「朝日新聞」・「読売新聞」などによる>

 

4 新元号に関連して②[漢字の伝来と音(おん)]

◆漢字・漢文はいつ伝わったのか? 漢字の倭への伝来は、4世紀末~5世紀と考えられている(日本という国号の使用は7世紀後半から)。漢字文化を先に受容していた百済から伝えられた。最初、漢字を倭で使用し、倭の人々に漢字を教えたのは、「渡来人」であった。

◆「令」の読みから、中国文化の影響を考えておきたいと思う。

漢字の日本での音読みは、大きく2種類ある。漢音と呉音である。漢音は、7世紀~8世紀に遣唐使がもたらした。呉音は、漢音より早く、5世紀~6世紀の南朝(江南に都をおいた)から、もしくは南朝百済~倭という経路で伝わった。

◆新元号の「令(レイ)」という読みは、漢音。「令(リョウ)」という読みもあるが、こちらは呉音である。「和(ワ)」は呉音。

◆したがって、新元号の「レイワ」という発音も、中国から伝わった音がもとになっていることがわかる。中国文化の影響はきわめて大きかった。

◆日本では、漢音と呉音が混在して現在に至っており、加えて訓読み(こちらは和語)がある。いずれにしても、元号に漢字を使う以上、中国文化の影響を否定することは不可能である。

<大島正一『漢字伝来』(岩波新書)、各種の漢語辞典・漢和辞典などによる>

 

5 新元号に関連して③[花]

梅の花に注目が集まっているものの、梅は日本固有の植物ではない。梅は、漢字と同じく、中国から伝わった。奈良時代には、伝わったばかりの珍しい花で、上流階級の人たち中心に愛でられていた。紅梅はまだ伝わらず、白梅のみだった。

◆人々は白い梅の花に目を奪われたが、霊力を持つと考えられたのは桃(こちらも中国原産)のほうだった。ここから、桃の節句が生まれた。なお、桜は日本在来の植物であるが、ソメイヨシノは江戸時代にできた品種。

<湯浅浩史『日本人なら知っておきたい 四季の植物』(ちくま新書)などによる>

 

6 英語で元号

◆英語では、 imperial  era と表現されている。

<イギリスBBCのニュースサイトによる>

天皇が、現在も、慣用的に Emperor と呼ばれているからだろう。外国では、象徴天皇制にそぐわない表現が続いている。

 

<日本文化の複合性、「国書」、元号の未来>

★日本の歴史は、外来文化の受容の歴史です。縄文時代から、列島に住む人々は、外来文化に心を開いてきたと思われます。このことは、稲作、漢字、仏教、儒教と並べるだけで、十分に理解されるでしょう。「国書から」と聞くと誤解してしまいますが、中国から伝わった白梅の下で宴を開いた「万葉人(びと)」も、まさに外来文化に心を開いた人たちだったのです。

 

★現在に至るまで、日本の文化はアマルガム(合金のようなもの)として形成されてきました。風土に根ざした固有性を土台としながらも、外来文化を積極的に受容して複合的な文化をつくってきたのが、日本人でした。したがって、「国書」とは言っても、外来文化の混じった、複合的な文化の所産です。「国書」という語はナショナルな感情を刺激しますけれども、「中華思想」まで中国から学ぶ必要はありません。

 

★簡単に振り返っておきますが、外来文化の受容は先史~古代だけではありません。鎌倉時代には禅宗の受容がありましたし、室町時代には朱子学が摂取されました。またこの時期には、なんと中国の銅銭が日本で流通していたのでした。その後、ヨーロッパとの出会いがありました。ポルトガル人は、約100年、日本に来ていました。江戸時代は通常鎖国とされますが、実態は違います。とりわけ、オランダ語とオランダ医学を学ぶ人たちがいたことは重要です。江戸時代にヨーロッパの言語の一つが学ばれていたという事実は、外来文化の摂取という日本の伝統を示しています(同時代の中国・清朝ではそのようなことはありませんでした)。幕末以降の欧米文化摂取については、言うまでもありません。

 

★外来文化受容の過程では、化学変化のように、外来文化が変容することがありました。また、日本の固有性そのものも、知らず知らずのうちに変容を被ってきたと思います。これからも、このような流れは続いていくに違いありません。カタカナの語やアルファベットが街に氾濫するようになって久しいですし、小学生から英語を必修として学ぶ時代なのですから。

 

元号は、定着した外来文化の一つです。多くの日本人は、元号に愛着を感じてきました。この歴史を軽んじることはできないでしょう。ただ、冷静に考える必要もあります。日本に「悠久の歴史」があるとしても、元号はその途中から導入されたものです。元号に「悠久の歴史」があるわけではありません。また、元号の役割も、歴史の中で変化してきました。「大化」と「明治」と「平成」では、大きく違います。元号を頭から否定する立場ではありませんが、大きなスパンで客観的に考えれば、元号という制度が今後も永久不変だとは言えないでしょう。

 

<おわりに>[4月7日追記]

★現在の日本で、元号はどういう意味を持つのでしょうか?  象徴としての天皇が、まだ「時間を支配」しているのでしょうか? それとも、もはや元号は「人々の願いを汲み取り、時代の空気をリセットする」ためにあるのでしょうか? お祭り騒ぎのような改元フィーバーを見ていると、不思議な気持ちになります。もちろん「崩御」による改元ではないからでしょうが、西暦使用の拡大の中で、 元号にも化学変化が起こっていることは間違いありません。

 

天皇の自主的な退位による新元号「令和」の幕開けは、奇しくも、「外国人材」の受け入れ拡大と重なることになりました。この重なりは偶然でしょう。しかし、歴史的意味を持たざるを得ない偶然であるように思います。

 

★最後になりますが、この70年余り、日本人は元号ではない時代区分にも親しんできました。「戦後」です。この言葉も、強い磁場を持ってきたと思います。「令和」は、「戦後」を引き継いでいくでしょうか?