世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

【中世末期から考える「大航海」 】<探究的な授業へ①>

◆2022年度からの新課程では、「世界史探究」という科目が登場します。教科書の記述も学び方も、現行の「世界史B」とは違うものになるのかどうか、注目しています。

 

◆また「歴史総合」も、単なる「世界史+日本史の近現代史」ではなく、探究的な科目として実施されることを、期待しています。

 

◆生徒たちと探究してみたいテーマの中から、今回は「大航海」を取り上げます。探究するのは、生徒たちだけではありません。教える側も問いを立てることが大切です。

 

◆以下では、大きく4つの問いを立ててみました。「大航海」を中世末期~近世初期の西ヨーロッパの動き全体の中に位置づけるためのメモです。

 

<問い1>

 ヨーロッパ人(厳密には西ヨーロッパ人)の「大航海」を可能にしたものは何か? 

 

★「大航海」の背景として、今まで言われてきたのは、概ね次のようなことでした。(典型的な記述は山川の「詳説 世界史B」に見られます。)

 

 ① 香辛料取引を含む、アジアへの強い関心

 ② 航海術・造船術などの発達

 ③ レコンキスタの成功

 ④ キリスト教布教の情熱

 

★①および②に関連して、東書の「世界史B」には、すぐれた記述があります。

 

 「イベリア半島に、これまで地中海交易を通じてイタリア商人が蓄積してきた東方の商業知識や航海、造船、天文、地理の知識が伝わると、熱狂的な航海ブームがおこった。」

 

★ただ、舞台が地中海から大西洋に移った理由は、それだけではありません。東書の記述の背景には、さらに次のような事実がありました。

 

 15世紀、ヨーロッパの南北の商業圏が、海路でつながりました。(*)

 A イタリア諸都市とフランドル、イングランドの商業航路確立

 B ハンザ商人のイベリア半島南部(リスボン)進出

 

 Aは、ジブラルタル海峡を、さまざまな地域の船団が通過するようになったことを示しています。

 また、Bにより、地中海の産物と北海・バルト海の産物が海路で取り引きされるようになりました。

 

 こうして、イベリア半島以外の商人たち・船乗りたちの視野にも、大西洋が入っていたのでした。

   中世後期の都市の発達と交通路を、陸路中心に見るだけでは不十分です。

 

 <問い2>

 「大航海」というヨーロッパ人の活動が、植民地支配につながっていったのは、なぜなのか?

 ラス=カサスが批判したような、スペイン人の新大陸における暴力は、なぜ起きたのか?

 

★たいへん難しい問題です。ただ、現在、このような問題意識を持たずに、「大航海」の授業を行うことはできないでしょう。

 

【「2019年3月25日、メキシコ大統領が、500年前のコルテスの侵略について、ローマ法王とスペイン国王に謝罪を求めた」というニュースが報じられました。[2019年3月26日追記]】

 

★この問題を考える時、上記の③は重要です。レコンキスタ(直訳すれば再征服)は、十字軍と並んで、ローマ教皇から「聖戦」と位置付けられていました。レコンキスタや十字軍参加者には「贖宥」が約束されたのです。つまり、上記の③と④は一体であり、レコンキスタとはイベリア半島の再キリスト教化でもありました。(「聖戦」はイスラームだけの用語ではありません。)

 

★このような事実から、レコンキスタを「国土回復運動」と訳すだけではでは不十分であることが分かると思います。

 

★さらに、レコンキスタは「国土回復」・「再征服」にとどまりませんでした。それは、1415年の、ポルトガルによるセウタ(モロッコの北端)占領という事態に、はっきりと示されています。レコンキスタの延長上には、新たな征服活動・布教活動が考えられていたのです。

 

★まとめると、<レコンキスタ(再征服・再キリスト教化)という「聖戦」の延長上に「大航海」(征服活動および布教活動)があった>と、言えると思います。

 

 <問い3>

(<問い1><問い2>を、もう一歩進んで考えるために、やや迂回しながら、<問い3>を考えます。)

  中世から近世へという転形期を特徴づけるものは何だったか?

 

★ここでは、大きな特徴を「死と暴力」としてとらえたいと思います。

 14世紀から15世紀、

  ①ヨーロッパは大惨事に見舞われ(ペスト流行の頻発)、

  ②「暴力のヨーロッパ」(**)が 出現していました。

 

★今回は詳しく触れませんが、「ヨーロッパはどのようにペストを乗り越えたのか」は、たいへん重要なテーマです。納得できるような説明には、まだ出会ったことがありませんが。

  ※ペストで失われた人口が回復するのは、なんと18世紀です。(*)

 

★一方、「暴力のヨーロッパ」は、戦争、内戦、農民一揆、都市の暴動、異端審問、魔女狩りユダヤ人迫害などとして現れていました。

 

★当時のヨーロッパには、死と暴力が溢れていたのです。加えて、教会大分裂などの混乱があり、封建社会は音を立てて崩れていました。まさに、危機だったと思います。

 

★このような事態は、イタリア戦争、宗教戦争から「17世紀危機」にまでつながっています。したがって、「中世から近世への移行はこの時期」と、簡単に線が引けるわけではありません。

 

<問い2><問い3>からは、次のように言えるかと思います。

 ★危機を乗り越えようとする力が、レコンキスタ(再征服・再キリスト教化[異教徒排除])の成功という「果実」をもたらした時、増幅されたエネルギーは、排他的な暴力を伴いながら、ヨーロッパの外へと向かいました。

 

<問い4>

 (他方、死と暴力の中でルネサンスが起こり、活版印刷術や地動説も登場しました。<問い4>は、<問い1>~<問い3>を総括する問いになります。)

 死や暴力が溢れる中で、ヨーロッパは、なぜ<人間と社会の発展>というベクトルを持ち続けることができたのか?

 

★この問いも、難問です。上記の「ヨーロッパはどのようにペストを乗り越えたのか」という問いとも重なっています。

 

★今回は、「メメント・モリ」ということばを手がかりに考えます。

 ペストの惨禍の中で、修道士たちは「メメント・モリ(死を想え)」と説きました。日本人は誤解しやすいかも知れませんが、それは無常観とは似て非なるものでした。

 

★「メメント・モリ(死を想え)」という呼びかけは、現世のかけがえのなさの認識へとつながっていきました。諦念ではなく、現世への執着、あるいは現世の凝視、あるいは生の肯定へとつながっていったのです。

 

★この文脈から、ルネサンスを考えることができるでしょう。ペスト大流行直後に書かれた、ボッカチオの『デカメロン』がこのことを象徴しています。また、マキァヴェリの『君主論』やシェークスピアの作品群は、現世の凝視そのものでしょう。生の肯定は、ボッティチェリの「春」に代表されると思います。

 

★現世を重んじる見方は、宗教の面では、地獄や煉獄を恐れ天国に救いを求める考え方から、「現世をよりよく生きる」という考え方への転換となって表れました。それは、「新しい敬虔」という運動にも見られたものです。(**)(***)

 

★詳述はできませんが、14世紀後半のフランドルから始まった「新しい敬虔」は、宗教改革カトリック改革の地下水脈の一つとなりました。「現世をよりよく生きる」という点では、ルネサンス人文主義にもつながっていたかも知れません。

 

★危機の中で、現世をポジティブにとらえようとする心性が広がりを持ったことが重要だと思います。この心性は、「大航海」のエネルギーをも支えることになったでしょう。残念ながら、「聖戦」の延長上にあった、異なる者たちへの暴力的エネルギーをも支えることになりましたが。

 

◆以上、4つの問いを立てて考えてきました。

 考察は不十分ですが、「大航海」の授業のためには、中世末期から近世初期にかけての全体的な理解が必要であることはわかっていただけたと思います。

 

◆転形期の錯綜する流れを総体として捉えるのは容易なことではありません。ただ、授業の中で教える側が探究的姿勢を示すことは、とても重要だと思います。

 

◆なお、<問い3>の説明①は、私の中では、未曽有の大災害と人口減少に直面している今の日本と重なるテーマになっています。

 

(*)佐藤彰一池上俊一『西ヨーロッパ世界の形成』(世界の歴史10、中央公論社、1997)

(**)ジャック・ル=ゴフ『ヨーロッパは中世に誕生したのか?』(藤原書店、2014) 

(***)水野千依『イメージの地層』(名古屋大学出版会、2011)