世界史の扉をあけると2

<世界史の扉をあけると>の続編です

▼書評 片山杜秀『歴史という教養』

 近代政治思想史研究者の著書ということで、期待を持って読みました。しかし、読後は、腑に落ちないものが残りました。さまざまな主義・史観への饒舌な批判にもかかわらず、提唱している「新しい温故知新主義」が危うさを免れていないからだと思います。

 

 次のような主義・史観が、厳しく批判されています。

 保守主義復古主義ロマン主義啓蒙主義、反復主義、ユートピア主義、「右肩上がり」史観、「右肩下がり」史観、「興亡」史観、「勢い」史観、「断絶」史観、「偉人中心」史観、「歴史小説」史観、「歴史道楽」主義

 

 ほぼ首肯できる内容でしたが、啓蒙主義ルネサンスのとらえ方には、違和感を覚えました。図式化された、表面的な見方であるように思います。

 

 新書版200ページ余りの中に、たくさんの思想家・文学者が登場していて、目も眩むばかりです。ただ、歴史学者への言及はほとんどありません。言及されているのは、網野善彦ぐらいでしょうか。小林秀雄などへの共感と歴史学者の地道な営為への目配りの少なさ、ここに本書の特徴が表れています。多分、著者の関心は、歴史学よりも歴史批評にあるのでしょう。

 

 さまざまの主義・史観を次から次へと批判する一方、著者は、「新しい温故知新主義」を打ち出しています。「歴史に学びながら今を生きる力を養う」考え方だとされます。さまざまの主義・史観への痛烈な批判と比べると、「新しい温故知新主義」は穏当な考え方のように見えます。

 

 しかし、著者の「新しい温故知新主義」は、ほんとうに新しい考え方でしょうか? 荻生徂徠に依拠しているから古い、というわけではありません。そこには、根本的な問題が潜んでいるように思われます。相対主義です。「新しい温故知新主義」が穏当に見えるのは、その相対主義のためでしょう。

 

 「新しい温故知新主義」が相対主義であることは、第一章で言明されていますが、その中身はまだ述べられていません。後半で、その本質が明らかになっていきます。

 

 著者は、第五章で、歴史を学ぶときには「対話的な形での自己検証」が必要であると述べ、それを「私はこう考えているが、こういうふうにも言えるし、ああいうふうにも言える」と表現しています。さまざまな主義や史観を批判したときの威勢のよさは、影を潜めています。著者の言う自己検証・複眼的な見方とは、まるで<「ああいえばこういう」の熟練>を指しているかのようです。 

 

 さまざまの修辞で飾られているものの、実は、「新しい温故知新主義」は、ごく普通の相対主義にほかなりません。新しいどころか、ソフィストをはじめ、古くからあるものです。完全な相対主義の手前で踏みとどまろうとはしていますが、「知新」は大きく後退していきます。どこかシニシズムに近い口吻が感じられるのは、そのためでしょう。

 

 「こういうふうにも言えるし、ああいうふうにも言える」のですから、論理的には、批判した「主義や史観」も、肯定せざるを得なくなるでしょう。「歴史のなかに正解はない」のですから。こうして、「新しい温故知新主義」は自己矛盾に陥り、思考は宙づり状態になります。「知新」は消えかかり、「迷う人間になる。それでいいのです。」ということになります。

 

 思考が宙づりになれば、「新しい温故知新主義」は、結果的には、「新しい意匠の保守主義」になってしまうかも知れません。 そこにあるのは、「知新」を目指したけれども、<相対的真理>の前で迷いに迷い、「知新」をほとんど諦める姿です。それは、終章に取り上げられた、田辺元の姿にほかなりません。

 

 終章には、<「新しい温故知新主義」という「教養」=歴史批評>の限界が、よく表れています。「賭ける」という語も使って論の崩れを防ごうとはしていますが、「結局は賽の河原をさまようほかはない」という諦念が強く滲み出ています。<さまよう中で一応骰子は振ってみましょう>と呼びかけて、本書は終わっています。その呼びかけに、力強さはありません。

 

 「教養」は、歴史の荒波の中で、無力を感じながら茫然と佇むために、あるのでしょうか? もしそうであれば、「教養」は要らないでしょう。

 

 時代を切り拓く力は、このような「教養」とは別のところから、出てくるように思います。

 

片山杜秀『歴史という教養』(河出新書、2019)】